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「日本のルーツ研究と弥栄」ブログにアニメ?
しかも、何かと話題になり、問題となったエヴァンゲリオン・シリーズの最終作。
今回で本当に終わり、ということで、庵野監督のドキュメンタリーがNHKで放映されたことも話題の一つだ。

 筆者は特にエヴァに思い入れがあるわけではなく、アニメ本は読んでいないし、テレビで放映されていたアニメも観てはいない。観たのは、テレビで放映された劇場版だけだ。それもつい最近のこと。社会現象化するには、何か理由があるのだろう、と。
 確かに、日本人が詳しくない聖書系の言葉がふんだんに登場し、いわゆる「謎解き」の様相を呈しているし、日ユ同祖論なども影響しているのかもしれない。

 核となるのは“人類補完計画”。一言で言えば、不完全な存在である人類を補完して完全生命体にする、というものだが、実はそこに本ブログが関与すべき極めて重要な問題が存在していたのである。しかも、最終作に於いて、それは明確なものとなったのだ。
 従って、本ブログに於いては異色であるものの、今回はアニメを主題とした。
更に、時を同じくして空前の大ヒットとなっているアニメ『鬼滅の刃』にもまた、共時性とでも言うべきか、“人類補完計画”との共通性があった!それは、鬼と鬼祓いについてである。

 なお、両作品とも現時点(2021年4月下旬)に於いて劇場上映中ということもあり、作品からの引用図は1点のみに止めた。

↓↓右クリックでダウンロード可能
『シン・エヴァンゲリオン』

※本記事はこれらアニメの解説と謎解きではないため、ストーリーについては割愛させて頂いた。興味のある方は、以下などをご覧頂きたい。ただし、ネタバレとなるので、ご注意を。

・シン・エヴァンゲリオン
①従来作の解説
https://animeanime.jp/article/2020/05/06/53462.html
https://ciatr.jp/topics/57683
https://animemiru.jp/articles/48044/
https://ciatr.jp/topics/316250
https://animemiru.jp/articles/48048/
https://animemiru.jp/articles/48049/
https://animemiru.jp/articles/48041/

②シン・エヴァンゲリオン解説
https://article.yahoo.co.jp/detail/37441362796df51fa174db234063de3d01589f1d
https://cinemarche.net/column/evangelion-sin-netabarenobi/

・鬼滅の刃
https://eiga-watch.com/kimetsu-kizuna/
https://eiga-watch.com/kimetsu-natagumoyama/
https://eiga-watch.com/kimetsu-chugokaigi-choyashiki/
https://eiga-watch.com/kimetsu-2020/



---管理人コメント---

なるほど、、そうきたか・・ (←管理人も感嘆)

シン・エヴァンゲリオン及び鬼滅の刃というコロナ禍における大ヒットアニメについて、
「和多志」の精神と「眞名井」の真理にしっかりと着地されたことで、清々しさを感じた方も多いのではないか。

映画そのものも、(管理人にとっては)とても満足な、良い終わり方だった。
エヴァが始まったのは、
ちょうど管理人が、バブル崩壊後の就職氷河期に大学を卒業し、なんとか就職した年。
阪神淡路大震災がおき、地下鉄サリン事件が起きた年である。

当時ガンダム世代の管理人にとってエヴァンゲリオンは、見た目もグロテスクで好きになれず、それほどハマらなかった。
しかし詳しい友人がいたり、カバラやセフィロト(生命の樹)が出てきたあたりから、おや?このアニメは・・・と、興味を持つように。

一作一作公開が制作側のゴタゴタもあり間延びした劇場版。
アニメにしてはあまりにも難しすぎるテーマについて、
「終わらせ方」がわからず迷走したかに見えた庵野監督の葛藤がこちら側まで伝わってくるかのようだった。

前作「Q」後は・・・庵野監督よ、背負ったものは大きいが、どうか苦しまないでほしい、もう中途半端な終わらせ方でも良いのではないか?、とすら思ったのもだ。

前作「Q」でまたもやシンジは自己中心的な考えで「やらかして」しまう。
こうして、自分とは何なのかを追い求めるために"誰かのために"行動してみせたり、自分自身で自分と向き合わずに”他人に答えを求めるふりをして責任を押し付けたり”、ありとあらゆるものに精神依存、存在承認を求める怪物、それこそが人間だ、あとは自分自身で考えてくれ!という終わらせ方でも良いのではないか?と。

しかし・・・
シン・ゴジラに寄り道したり、ご自身の結婚、そしてコロナ禍などを経た、庵野監督自身の精神的成長の境地に、やっと絞り出されたすばらしい「終わらせ方」に立ち会うことができた。

庵野監督がはじめてしまい、25年ものあいだ、多くの人々を巻き込み、付き合わせてしまった世界観を、自分自身とそして自分のアウトプットに寄り添わせてしまったファンたちのために、オトシマエをつけたかのよう。

もう、さまざまな謎解きや、キーワードの暗示、意味付け、考察する必要なはい。

youtubeやコアなファンによるさらなる解説や、次の予測、などは、「野暮」なのだ。
そんなことをしても、庵野監督は、続きのファンタジーを与えてはくれない。

「終わった」のだ。

エヴァ好きで、陰謀論やスピリチュアル方面を仕事にしている人は、バチーンと頬を殴られたように目が覚め、ショックを受けたかもしれない「救いの」作品に仕上がった。
良かれと思って情報発信や精神世界関係で他人からお金というエネルギーをとっている人には、まさに、残酷だが天使のテーゼ。
もう、そんなことは終わらせないといけない。自らの手で。
時代はそれを要求しない。むしろ、排除しようとしている。

いずれは誰もが、ここに到達しなければならない、向き合わなければならない現実に、強制的にひき戻される。

エゴでなくエヴァ。
自分の人生は、自分で切り拓くもの。
大切な友を見守るだとか、寄り添う温かさはあってよいが、
支援、サポートしてはいけない時代にはいったようだ。

多くの人が気づいているように・・他人が“気付きを与える”とか・・できないのだ。
外から与えられる気づきなるもので、自身が納得ができる幸せな生き方に変えられた人がどれほどいるだろうか。
自分自身が触れたくなかった部分を、勇気をもってわしづかみにし、それと向き合って、行動を変えていくなかで、深い意識変容が起き、過去の自分に別れを告げ、達観したステージへと自分の足で歩む。
それしか道はないのではないだろうか?

それを、自分自身で得るべき気づきを、ひとはたやすく邪魔をしてしまう。
時にはカウンセラーやコンサル、プロデュースなどでお金をとってまで遠回りさせてしまう。
そんな人々もまた、自分探しの旅から抜ける勇気がないために他人に目を向けすぎてしまうわけで、
その罪は放たれた矢のように正確に飛んできて、なんらかのかたちで対価を支払うことになる。

シンジの両親がそうであったのように。

ひとは、善悪2チームに別れていまを生きているのではなく、
それぞれの中で、二面性をもって成長し、
テーゼとアンチテーゼがからまりあって融合し、ジンテーゼ(次の次元)へと昇華する。
まさにそのようなメッセージをのこして、庵野監督は”終わらせた”。

25年続いた物語は、なんのへんてつもない駅のシーンで終わる。
向こうのホームは非現実世界。
あの頃の仲間は、列車に乗って去っていく。
こちらのホームは、現実世界。
シンジは、駅のホームで座っているのにも関わらず、「行こう!」と手を繋いで駅から飛び出していく。

それはまるで、
「もう、敷かれたレールの上を走る電車には乗らない」といわんばかりである。
現実を受け止め、現実に生きること、自由を生きる覚悟を楽しむかのように。

自分とは何者で、何のためにここに来たのか。
その謎に自分自身でケリをつけ、社会のため、地球、宇宙を存在させ続けるための意志の集合こそが『和多志』なのだ。
すべてはそこへ、辿り着くということを、日本のアニメで改めて確認できた。
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