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日本民族の旅路

戦後の経済活動一辺倒の時代を経て、人々の精神が病み、将来に希望が持てなくなりつつあった2011年、そんな日本人をあざ笑うがの如く、日本列島に未曾有の大震災が襲い掛かった。
しかし、奇しくもその大災害をきっかけとして、日本人自身が日本人とは何なのか、日本人はどこから来てどこへ行くのか、ということについて多くの国民が、目覚め始めた。
このblogが、そのような方々のこれからの行動の追い風として役立てば幸いである。

★転載・コピー・配布等は自由ですが、必ず引用元として当ブログリンク付けをお願いします。
 詳細は≪こちら≫をご確認ください。

<皇位継承問題-男系、女性・女系天皇->

 天皇は日本国の象徴であり、国家元首でもある。
そして、日本は天皇が“しらす”国である。“しらす”とは、国のトップが国の事情を広く知ることにより、自然と国民が統合され、国が統合されていくという、神話に於ける神々の住まう高天原(たかまのはら、たかまがはら)の統治機構そのものである。これに対して“うしはく”という統治機構があるが、これは豪族や首長が政治的権力をもって治めることである。
 現代に置き換えるならば、天皇が国の状態と国民を知り、国の象徴として国を治める形態が“しらす”状態であり、議員が政治によって治める形態が“うしはく”状態であって、議会や国会が政治権力であり、天皇が国としての権威ということである。“しらす”ことの最も良い例が第16代・仁徳天皇である。

・即位後、宮殿から国を見渡した天皇は、民家のかまどから煙が立っていないのを見て、民が貧しいことを知った。そのため、3年間徴税と労役(ろうえき)を禁じ、自らも衣服や履物は破れるまで使用し、屋根が傷んでも直さず、宮殿は雨漏りしていた。3年後、再び宮殿から国を見渡すと、民家のかまどから煙は盛んに立っていた。民に生活力が戻ったことを確認した天皇は徴税と労役を命じたが、民は大挙して都に集まり、自主的に宮殿の造営や納税に励んだ。

 このように、天皇は民を想い、民は天皇を想うという、親と子のような関係であり、天下は一つの家のような状態である。これを八紘一宇(はっこういちう)と言うが、「八紘(あめのした:天下)を掩(おお)ひて宇(いえ=家)にせむ」という日本書紀に於ける初代天皇・神武天皇の詔勅(しょうちょく:天皇が公に意思を表示する文書)に由来する言葉である。これは天皇を神格化するものではなく、国は一つの大きな家族のようなものということで、普段は意識しなくとも、いざという時には大きな効力を発揮する天皇並びに皇室と国民の関係を言い得ている。現代に於いてすら、普段は天皇や皇室のことを意識しなくとも、阪神淡路大震災や東日本大震災の時の両陛下のお姿に国民はどれだけ励まされたことか、記憶に新しいことだろう。

 しかし、二千年近く続いてきたこの天皇の皇位継承システムが今、皇族が減少し続けてきたことにより、断絶の危機に直面している。今上(きんじょう)陛下が御即位されて元号も「令和」に改められ、立皇嗣の礼も含めた御即位関連の一連の儀式も無事、斎行された。そのため、悠仁親王殿下御誕生以降、下火となっていた女性天皇・女系天皇論や歴史上存在しなかった女性宮家まで含めた議論が再び開始された。だが多くの国民は、女性天皇と女系天皇の違いすらしっかり認識しておらず、雰囲気や男女平等論等に基づいて何となく、という感覚論で判断しているように見受けられる。
 これは、先人たちが知恵を振り絞って維持してきた男系男子による皇位継承システムが即座に断絶する可能性を意味し、

皇位継承システムの断絶とは、これまで続いてきた天皇・皇室制度の終焉を意味する。

すなわち、日本という国のあり方=國體(こくたい)が根本的に変わってしまう事態を意味する。

言い換えれば、二千年以上の長きにわたって続いてきた日本という国がリセットされることを意味する。

 そこで、本記事に於いては、現在の男系継承をはじめ、女性天皇・女系天皇、宮家・皇族とは何なのか、また、皇室の祖とされる天照大神が女神なのに何故、天皇は男系継承してきたのか、ということを明らかにするために、天皇の存在意義や神話、古代からの日本に於ける女性の地位・立場、祭祀(さいし)のあり方など、多方面から考察しよう。
 なお、内容的には極めて重要な事であるため、多くの方にご覧頂きたく思い、記事としては二編用意しているので、適宜、ご覧頂きたい。

皇位継承問題 ←ここをクリック
 初めて当ブログを訪れて頂いた方や、概要を理解したい方向け。

皇位継承問題-詳細 ←ここをクリック
 当ブログの記事を以前からご覧頂いている方向け。上記記事『皇位継承問題』に、第26代・継体天皇から第38代・天智天皇、第40代・天武天皇を経て、第50代・桓武天皇に至る詳細を追記考察している。

 この機会に、これまで何となく感覚的にしか捉えていなかった皇位継承や皇室について考えてみては如何だろうか?本記事が、少しでもお役に立てれば幸いである。


--管理人コメント--

何のために知らなければならないのか?それはまさにこの部分。

皇位継承システムの断絶とは、これまで続いてきた天皇・皇室制度の終焉を意味する。
★すなわち、日本という国のあり方=國體(こくたい)が根本的に変わってしまう事態を意味する。
★言い換えれば、二千年以上の長きにわたって続いてきた日本という国がリセットされることを意味する。

「だから男系でなければダメである」 と頭ごなしに言いたいのではない。
新時代にあった在り方があっても良いとは思う。

しかし、数千年の歴史のなかで築き上げできたものをしっかりと理解して議論すべきだし、
そもそも政治家やにわか評論家が口を挟む問題でもないのだ。

ただし、天皇陛下はその決断のとき、国民の想いや願いに身を寄せるだろう。

だからこそ我々は、「なんとなく」や「雰囲気」、「他人事」ではなく、すべての日本国民が”しっかりと理解”したうえで考え、自分自身の(自分がこの国の代表だったとしたら、くらいの視座で)考えを導き出す必要があるとおもう。

判断を誤れば”取り返しがつかない”こととなる。
そうなれば、われわれ世代は日本の子孫たちから”雰囲気で取り返しがつかないことをしでかしてくれた世代”として恨まれることになるかもしれない。

「天皇」 「八紘一宇(はっこういちう)」 「国體(こくたい)」
これらの言葉を聞いた瞬間にアレルギー反応を起こしたり、
右寄り思想な人々の好きなコトバだ!とか、
男尊女卑だからそもそもアウトだ、とか、
天皇すり替え説=だから今の天皇は偽物=だから要らない、とか、
天皇だけ豪華な皇居で生活しているのが不公平だ、不平等だ、
などという思いが頭をよぎるひとびとにこそ、このレポートを参考にしてほしい。

そんな、スケールの小さい話ではないので。

よくある「男系を継続しないとY染色体が継げないから」という話もあるが、もしそうだとしたら、
科学も医学も今とは違う何千年も前にそれを重要視した「理由」に目を向けずして、安易な判断をして良いのだろうか?

こんな話がある。
ある田舎の神社の真ん中に、ご神木のごとき柿の木があった。
敷地から離れたところに墓があり、そのとなりに小さな湧き水と小川があり、「この小川は決して穢してはならない」と言い伝えられてきた。
しかし区画整備等でその世代の宮司(土地の所有者)が禁を破ってしまう。
言い伝えに対してはかろうじて、小川を潰すのではなく、流れるコースを変えたのだった。
すると・・・じわじわとゆっくりと時間をかけ、柿の木が枯れていった。
氏子たちに柿をふるまう柿祭りもできなくなり、氏子が集まる機会も減った。
柿を食べに来ていた鳥も来なくなった。
天敵の鳥が減ったおかげで、境内の木々には虫がわき、荒れ果てていった。
柿の大木の根に住んでいたその土地独自の菌類が死滅し、その神社のまわりの田畑の作物も実らなくなった。

大自然と同じく歴史あるものは、「そうなるとは知らなかった」では、取り返しがつかない。


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「日本のルーツ研究と弥栄」ブログにアニメ?
しかも、何かと話題になり、問題となったエヴァンゲリオン・シリーズの最終作。
今回で本当に終わり、ということで、庵野監督のドキュメンタリーがNHKで放映されたことも話題の一つだ。

 筆者は特にエヴァに思い入れがあるわけではなく、アニメ本は読んでいないし、テレビで放映されていたアニメも観てはいない。観たのは、テレビで放映された劇場版だけだ。それもつい最近のこと。社会現象化するには、何か理由があるのだろう、と。
 確かに、日本人が詳しくない聖書系の言葉がふんだんに登場し、いわゆる「謎解き」の様相を呈しているし、日ユ同祖論なども影響しているのかもしれない。

 核となるのは“人類補完計画”。一言で言えば、不完全な存在である人類を補完して完全生命体にする、というものだが、実はそこに本ブログが関与すべき極めて重要な問題が存在していたのである。しかも、最終作に於いて、それは明確なものとなったのだ。
 従って、本ブログに於いては異色であるものの、今回はアニメを主題とした。
更に、時を同じくして空前の大ヒットとなっているアニメ『鬼滅の刃』にもまた、共時性とでも言うべきか、“人類補完計画”との共通性があった!それは、鬼と鬼祓いについてである。

 なお、両作品とも現時点(2021年4月下旬)に於いて劇場上映中ということもあり、作品からの引用図は1点のみに止めた。

↓↓右クリックでダウンロード可能
『シン・エヴァンゲリオン』

※本記事はこれらアニメの解説と謎解きではないため、ストーリーについては割愛させて頂いた。興味のある方は、以下などをご覧頂きたい。ただし、ネタバレとなるので、ご注意を。

・シン・エヴァンゲリオン
①従来作の解説
https://animeanime.jp/article/2020/05/06/53462.html
https://ciatr.jp/topics/57683
https://animemiru.jp/articles/48044/
https://ciatr.jp/topics/316250
https://animemiru.jp/articles/48048/
https://animemiru.jp/articles/48049/
https://animemiru.jp/articles/48041/

②シン・エヴァンゲリオン解説
https://article.yahoo.co.jp/detail/37441362796df51fa174db234063de3d01589f1d
https://cinemarche.net/column/evangelion-sin-netabarenobi/

・鬼滅の刃
https://eiga-watch.com/kimetsu-kizuna/
https://eiga-watch.com/kimetsu-natagumoyama/
https://eiga-watch.com/kimetsu-chugokaigi-choyashiki/
https://eiga-watch.com/kimetsu-2020/



---管理人コメント---

なるほど、、そうきたか・・ (←管理人も感嘆)

シン・エヴァンゲリオン及び鬼滅の刃というコロナ禍における大ヒットアニメについて、
「和多志」の精神と「眞名井」の真理にしっかりと着地されたことで、清々しさを感じた方も多いのではないか。

映画そのものも、(管理人にとっては)とても満足な、良い終わり方だった。
エヴァが始まったのは、
ちょうど管理人が、バブル崩壊後の就職氷河期に大学を卒業し、なんとか就職した年。
阪神淡路大震災がおき、地下鉄サリン事件が起きた年である。

当時ガンダム世代の管理人にとってエヴァンゲリオンは、見た目もグロテスクで好きになれず、それほどハマらなかった。
しかし詳しい友人がいたり、カバラやセフィロト(生命の樹)が出てきたあたりから、おや?このアニメは・・・と、興味を持つように。

一作一作公開が制作側のゴタゴタもあり間延びした劇場版。
アニメにしてはあまりにも難しすぎるテーマについて、
「終わらせ方」がわからず迷走したかに見えた庵野監督の葛藤がこちら側まで伝わってくるかのようだった。

前作「Q」後は・・・庵野監督よ、背負ったものは大きいが、どうか苦しまないでほしい、もう中途半端な終わらせ方でも良いのではないか?、とすら思ったのもだ。

前作「Q」でまたもやシンジは自己中心的な考えで「やらかして」しまう。
こうして、自分とは何なのかを追い求めるために"誰かのために"行動してみせたり、自分自身で自分と向き合わずに”他人に答えを求めるふりをして責任を押し付けたり”、ありとあらゆるものに精神依存、存在承認を求める怪物、それこそが人間だ、あとは自分自身で考えてくれ!という終わらせ方でも良いのではないか?と。

しかし・・・
シン・ゴジラに寄り道したり、ご自身の結婚、そしてコロナ禍などを経た、庵野監督自身の精神的成長の境地に、やっと絞り出されたすばらしい「終わらせ方」に立ち会うことができた。

庵野監督がはじめてしまい、25年ものあいだ、多くの人々を巻き込み、付き合わせてしまった世界観を、自分自身とそして自分のアウトプットに寄り添わせてしまったファンたちのために、オトシマエをつけたかのよう。

もう、さまざまな謎解きや、キーワードの暗示、意味付け、考察する必要なはい。

youtubeやコアなファンによるさらなる解説や、次の予測、などは、「野暮」なのだ。
そんなことをしても、庵野監督は、続きのファンタジーを与えてはくれない。

「終わった」のだ。

エヴァ好きで、陰謀論やスピリチュアル方面を仕事にしている人は、バチーンと頬を殴られたように目が覚め、ショックを受けたかもしれない「救いの」作品に仕上がった。
良かれと思って情報発信や精神世界関係で他人からお金というエネルギーをとっている人には、まさに、残酷だが天使のテーゼ。
もう、そんなことは終わらせないといけない。自らの手で。
時代はそれを要求しない。むしろ、排除しようとしている。

いずれは誰もが、ここに到達しなければならない、向き合わなければならない現実に、強制的にひき戻される。

エゴでなくエヴァ。
自分の人生は、自分で切り拓くもの。
大切な友を見守るだとか、寄り添う温かさはあってよいが、
支援、サポートしてはいけない時代にはいったようだ。

多くの人が気づいているように・・他人が“気付きを与える”とか・・できないのだ。
外から与えられる気づきなるもので、自身が納得ができる幸せな生き方に変えられた人がどれほどいるだろうか。
自分自身が触れたくなかった部分を、勇気をもってわしづかみにし、それと向き合って、行動を変えていくなかで、深い意識変容が起き、過去の自分に別れを告げ、達観したステージへと自分の足で歩む。
それしか道はないのではないだろうか?

それを、自分自身で得るべき気づきを、ひとはたやすく邪魔をしてしまう。
時にはカウンセラーやコンサル、プロデュースなどでお金をとってまで遠回りさせてしまう。
そんな人々もまた、自分探しの旅から抜ける勇気がないために他人に目を向けすぎてしまうわけで、
その罪は放たれた矢のように正確に飛んできて、なんらかのかたちで対価を支払うことになる。

シンジの両親がそうであったのように。

ひとは、善悪2チームに別れていまを生きているのではなく、
それぞれの中で、二面性をもって成長し、
テーゼとアンチテーゼがからまりあって融合し、ジンテーゼ(次の次元)へと昇華する。
まさにそのようなメッセージをのこして、庵野監督は”終わらせた”。

25年続いた物語は、なんのへんてつもない駅のシーンで終わる。
向こうのホームは非現実世界。
あの頃の仲間は、列車に乗って去っていく。
こちらのホームは、現実世界。
シンジは、駅のホームで座っているのにも関わらず、「行こう!」と手を繋いで駅から飛び出していく。

それはまるで、
「もう、敷かれたレールの上を走る電車には乗らない」といわんばかりである。
現実を受け止め、現実に生きること、自由を生きる覚悟を楽しむかのように。

自分とは何者で、何のためにここに来たのか。
その謎に自分自身でケリをつけ、社会のため、地球、宇宙を存在させ続けるための意志の集合こそが『和多志』なのだ。
すべてはそこへ、辿り着くということを、日本のアニメで改めて確認できた。

<神仏習合と修験道-祈り>

 2020年の幕開け早々、中国で発生した新型コロナウイルスが世界中を巻き込んでいった。
当初は楽観視されていたものの、未知のウイルス故にワクチンや特効薬が無く、対処療法を実施するのみで、2020年3月時点ではとうとう世界的パンデミックとなった。更に、医療が崩壊の危機に直面した国も出てきて、多くの死者が発生し続ける世界的な非常事態となってしまった。
 また、各国国境は封鎖され、外出や移動も禁止され、連動して株式もリーマンショックを越える大暴落となり、世界経済のデフォルトも懸念されている。

 歴史を振り返るならば、この様な時、人々は神に祈った。
欧米に於いては全知全能の唯一の神に祈る。対して日本では、「神様、仏様!」と神にも仏にも祈るが、唯一神信仰の人たちの目には、異なる宗教の「神々」に節操なくすがっているかのように映るようだ。
 現在では神社と仏閣は一部を除いて分けられているが、明治以前は同じ敷地内に存在するのが当たり前だった。
これを神仏習合と言い、今でも多くの家庭に於いて、神棚と仏壇が一緒に祀られていたりする。

 では、何故、外来の仏教と仏教伝来以前から存在していた神道(的祭祀)という異なる宗教が習合できたのか?
実は、そこには宇宙の真理が隠されていたのである。これはまた、祈りを本質とする修験道にも繋がっているので、修験道や祈りの本質も併せて考察しよう。

 参考までに、神社界がこのような事態に於いて、どのような「祈り」を実践しているのか、例を示す。
神社本庁から令和2年3月4日付で各神社庁長宛に通知された「新型コロナウイルス感染症流行鎮静祈願祭祝詞」「日供祭(にっくさい)辞別祝詞」である。これは、本庁に属する全国の神社に於いて「新型コロナウイルス感染症鎮静祈願祭」を適宜の日に小祭で斎行するとともに、状況改善までの間、日供祭に於いて辞別祝詞を奏上するように求めたもので、その祝詞例文である。神社本庁では、3月6日に本庁の神殿にて斎行したとのことである。

(『神社新報』令和2年第3486号、3月16日付の記事より。)
norito.jpg

*日供祭とは、日々、神前に神饌をお供えし、国の繁栄や安寧、人々の幸せを祈念する神事。辞別とは、宣命や祝詞で特に言葉を改めて申すこと。

 本来ならば、全国一斉に全神職が心を一つにしてこの祈願祭を斎行するのが理想であろう。その祭主を天皇陛下として。
更に、修験の護摩祈祷も合わせて。(その意味は、本文をお読みになればご理解頂ける。)
 ちなみに、両陛下が海外公務に遊ばされる時などにも、安全祈願の祝詞奏上が全国の神社にて、御帰国遊ばされるまで続けられることも追記しておこう。

本編PDFはこちら↓ (※PCは右クリックで保存可能)
神仏習合と修験道


---管理人コメント---

そ、そんな角度から「神仏習合」と「修験道」を語る??? ←初見の感想。

普通の人には、一度読んだだけではさっぱりわからないかもしれないし、
下記に挙げたキーワードを少しでも知っている人は、驚きの連続であることは間違いない。
神道や仏教に詳しいはずの人であれば、張り手でひっぱたかれたかのような衝撃を受けるかもしれない。

いずれにしても、完全に脳内はスパーク、新たな次元でモノゴトをとらえるニューロン、シナプスが働きだすだろう。


この投稿は、「神道と仏教が習合しましたよ」、というレベルのおはなしではない。
解説、根拠、が宇宙的、立体的過ぎて、コメントをまとめようがない。
カバラの生命の樹(セフィロト)の各パーツがパスで繋がりバランスされているかのように、
あらゆる話がこの謎解き研究資料で繋がり、統合されている。

過去記事<籠神社と眞名井神社>でも触れられた「スミルノフ物理学から導かれる宇宙観と眞名井の宇宙観」の引用から始まり、振り返ることができる。

キーワードだけでも列挙しよう。

シリウス、二ビル、アヌンナキ、そして人類誕生。
眞名井とはなにか、和多志とはなにか。
バランス、合わせ鏡。
チャクラ、男女、生エネルギー、クンダリーニ。
カバラ、生命の樹のポジションと、体の部位。
シュメール、スメル、スメラミコト、天皇陛下。

・・・これはもう、プリントアウトして、紙でマーカーをつけながらじっくりと読み込みたい資料だ。
「知識」ではなく「知性」。

<大嘗祭(だいじょうさい)-改訂版->

 2016年6月24日に<大嘗祭>を公開した。以後、様々な情報や他記事の考察から、修正や追記が必要となったので、以前の記事に上書きしようかとも思われたが、本年令和元年10月には今上陛下の即位式、11月には大嘗祭が斎行されることから、新たに「改訂版」として記事を起こすこととした。

・修正情報:八平手の拍手について。
・追加情報:大嘗宮正殿内部図、即位式概要、卯の日の意味。
・大嘗祭の本質再解釈。特に粟(あわ)が秘儀とされる点に着目して。

 なお、ここに記載されている儀式内容は、核心部分は現代も継承されてはいるものの、すべてがそのまま斎行されているわけではないことに注意頂きたい。例えば、かつて大嘗宮造殿は大嘗祭の祭日3日前までに5日間で竣工されていたが、今回は7月26日に造営工事が着手され、大嘗宮の材質や斎場の大きさも、時代によって変化している。

 また、当ブログに初めてお越し頂いた方に向けて、カバラやシュメール、スミルノフ物理学といった、当ブログ特有の内容をカットした「初心者用」も用意させて頂いた。「初心者用」とは言っても、かなり詳細な神道の内容なので、普段接することが無い独自の用語や難しい読みの言葉が頻繁に登場するが、そういうものなのか、という程度で流して読んで頂ければ良い。なお、どうしても陰陽道(おんみょうどう)的考察は不可欠であり、且つ、我が国の歴史の真相に深く関わっているのが伊勢の外宮・内宮の両方の元伊勢である籠(この)神社であるため、陰陽道的な話や籠神社の秘伝などが唐突に記されているが、難解な用語共々、ご容赦願いたい。(外宮・内宮の両方の元伊勢とされるのは、唯一、籠神社のみである。)

 今回の改訂を通じて言えることは、大嘗祭は天皇一世一代の最も重要な神事であり、故に、そこには神祭りの深い真意が隠されていた、ということである。
 この記事が、皇室そして日本という国を理解することに対して、少しでも役立つことができれば幸いである。

↓無料ダウンロード↓
『大嘗祭』-改訂版

『大嘗祭』-初心者用


---管理人コメント----
日本を国として世界一長く存在させてきた「天皇システム」。
個々の時代を一本の歴史として繋ぎとめてきた、最重要祭祀「大嘗祭」。
このドキュメントは、すべての日本人の魂に届いてほしい。

「粟こそが大嘗祭の秘儀」というこの研究結果から受けとったのは、「天皇と民で家族=国」ということだった。

現在、大嘗祭を前に、徳島県木屋平で作られ調進される「麁服」に注目が集まっている。
伊勢神宮垣内に敷き詰められた「お白石」も、徳島県吉野川流域で採取され、伊勢に運ばれる。いったい何故?
今回の改訂版では、「阿波の再考」も最高である。
以下、ドキュメント本編から抜粋する。

※下記リンクにある上一宮大粟神社のyoutube動画は、徳島県出身のオキタリュウイチ氏撮影。

~本編より抜粋~
(5)米と粟=阿波の再考
“粟こそが大嘗祭の秘儀”としたが、ここまで考察を基に、天照大神と豊受大神の観点で米と粟=阿波を再考する。
粟は米に先立つ穀物で、縄文時代から食されていた。だから、粟(と麻=麁服)は儀式が先立って斎行される悠紀に、米(と絹=繪服)は主基に相当する。
また、粟=アワ=阿波の忌部氏である三木氏は麁服に神降ろしするが、その神は前述の如くウシトラノコンジン=豊受大神である。ならば、粟は豊受大神、米は天照大神に相当すると言える。
そして繰り返しになるが、悠紀殿での儀が主基殿に先立って斎行されることは、豊受大神を祀る外宮の儀が天照大神を祀る内宮に先立って行われる外宮先祭と同義である。
従って、粟=悠紀殿=外宮=豊受大神、米=主基殿=内宮=天照大神という図式が成立し得る。
更に、作物的な観点からすると、粟は米が育たないような寒冷地や高地、高緯度地域でも栽培可能である。これを陰陽に当てはめれば、米は陽、粟は陰の穀物と言える。

そして、豊受大神の本質は天御中主神のエネルギー、天照大神の本質はそこから発せられる光のエネルギーだが、このエネルギーは比誘電率と比透磁率が1より小さい負のエネルギーなので、実質的にそこから発せられる光もまた負のエネルギーの光なので、エネルギーとしては陰である。故に、豊受大神も天照大神も陰である女神となる。
しかしながら、光は太陽の光の如く陰陽道的には陽としての扱いであり、天照大神は太陽神的でもあるので陽となり、豊受大神との陰陽の合一で天御中主神を形成するわけである。
故に、米=陽=天照大神、粟=陰=豊受大神と言える。つまり、粟と米の両方を聞し食されることにより、陰陽の合一によって天御中主神の霊威を頂くことになる。

なお、降臨する神として、一般的には前述の天照大神以外ではタカミムスビノカミが挙げられることがある。天御中主神、カミムスビノカミと共に造化三神を形成するが、タカミムスビノカミの娘(ヨロズハタトヨアキツシヒメ)は天孫ニニギの母であり、タカミムスビノカミは天照大神よりも優位に立って天孫降臨を司令した。
また、即位前の神武が熊野から大和に侵攻する場面で神武を助けたタカクラジの夢に登場して手助けしたりしており、常に天照大神(とその子孫)を裏から支えるような役割で、実質、高天原はタカミムスビノカミと天照大神によって統治されていたとも言える存在である。そうすると、タカミムスビノカミは創造神的な造化三神の一柱で、高天原を神々の世界としての創造神の世界と見るならば、タカミムスビノカミは豊受大神に相当する。

では今一度、悠紀殿と主基殿の両殿で同じ儀式が斎行されることについて考察する。
悠紀殿、主基殿では共に粟と米が供えられ、両殿は同じ儀式が斎行されるが、悠紀殿の儀式は午後9 時から11 時頃に、主基殿の儀式は午前3 時から5 時頃に斎行されるという点のみが異なる。
大嘗祭では神が神座に降臨し、天皇御親ら神饌を奉っておもてなしされるが、悠紀殿、主基殿いずれも天皇がおもてなしする神は天照大神とされてきた。
ならば、悠紀殿で天皇が神をおもてなしした後、神は寝座で床に就かれ、そして高天原へお戻りになるはず、である。しかし、その後は主基殿にも降臨し、同じことが繰り返されるということはおかしい。
そこで、外宮に相当する悠紀殿の儀式は深夜だから陰、内宮に相当する主基殿の儀式は夜明け近いから陽ということ、及び外宮先祭ということからすると、まず悠紀殿に降臨されるのは天御中主神の根源エネルギーである女神・豊受大神で、豊受大神は豊穣神で食も司るから、新穀の米と粟、特に陰のエネルギーの象徴である粟を通じて天皇は深夜に陰のエネルギーである豊受大神の霊威を頂く。
その後、暁の頃になると主基殿に天照大神が降臨し、天皇は特に陽のエネルギーの象徴である米を通じて陽のエネルギーである天照大神の霊威を頂く。

これにより、豊受大神の霊威と天照大神の霊威の陰陽の合一が完成し、天御中主神の霊威を頂いたことになる。そして、すべての儀式が終わる頃、朝日が昇り、日嗣の皇子としての天皇が完成するわけである。
つまり、大嘗祭で粟が秘儀とされるのは、陰(いん)の新穀である粟の陰(かげ)に根源的エネルギーである陰(いん)のエネルギー、豊受大神が隠されていたからに他ならない。そして、御座と神座が神宮の方角に向けられ、時間差をつけて悠紀殿と主基殿の両殿で同じ儀式を斎行するのは、皇祖神たる天照大神のみならず、豊受大神も天皇御親らおもてなしして霊威を頂くからである。
また、悠紀殿と主基殿の両殿に新穀としての粟と米、神服としての麁服と繪服をそれぞれお供えするのは、単にそれぞれが豊受大神、天照大神を暗示しているだけではなく、粟と米、麁服と繪服のそれぞれの両者が合わさって天御中主神を暗示しているからである。

すなわち、大嘗祭は天皇が御親ら神祭りし、新穀を通じて豊受大神と天照大神の霊威を頂き、両者陰陽の合一で天御中主神の霊威を頂くことになって“天皇の永遠、天皇の弥栄”を願う儀式に他ならない。
以上、即位式は、新帝が天御中主神を祀る祭主かつ地上に於ける代理人であることを内外に知らしめる儀式であり、大嘗祭は、新穀を通じて天御中主神の霊威を頂き、“天皇の永遠、天皇の弥栄”を願う儀式である。
かつて、神社は東西方向(本殿は東向き)を向いていた。それが新制神宮創祀以来、主に南北方向(本殿は南向き)に変えられた。そうすると、参拝者は北を向くこととなるが、それは北極星=天御中主神を拝しているに他ならない。

また、粟に関わる阿波に関しては、<空海>にも記されているように、オオゲツヒメに関係がある。以下、その部分を振り返る。
古事記に依れば、オオゲツヒメはスサノオに斬り殺され、体の各部位から蚕や穀物が芽生えたとされ、アワ(阿波、粟)の国の名前として記載されている。
つまり、オオゲツヒメは豊穣の女神であり、豊受大神と同義で、そのオオゲツヒメが祀られるのは上一宮大粟神社(徳島県名西郡神山町)、一宮神社(徳島県徳島市)、阿波井神社(徳島県鳴門市)で、いずれも徳島=アワの国のみである。
これが、日本書紀ではツキヨミがオオゲツヒメと同義のウケモチノカミを殺したことになっている。ウケモチノカミ=保食神だから、オオゲツヒメ=ウケモチノカミ=豊穣の女神=豊受大神である。中でも、上一宮大粟神社はかつて阿波一之宮という格式であり、伝承に依れば、衣食の神の総本宮であり、イザナギ、イザナミ両神よりも古い神で月神であり、永遠不滅ということからしても、やはり豊受大神と同義である。

(この神社伝承部分は以下参照。

【神山】上一宮大粟神社② 阿部宮司による御祭神(オオゲツヒメ)説明
https://www.youtube.com/watch?v=kES5FciT_cM&feature=youtu.be

【神山】上一宮大粟神社③ 阿部宮司による御祭神(オオゲツヒメ)説明その2
https://www.youtube.com/watch?v=fH38SKHBSDo&feature=youtu.be

むしろ、歴史の流れを考えると、
海部氏一団が沖縄・奄美を経て霧島~宇佐に渡来して縄文王家の入り婿となり、その後、四国の太平洋岸及び瀬戸内に分かれて近畿に向かい、途中、忌部氏の一部が阿波に留まり、祭祀の基礎を整えつつ、海部氏が丹後へ達して中央の縄文王家に入り婿し正式な弥生大王家となり、南下して邪馬台国を築くと、阿波忌部氏が呼び寄せられて新たな祭祀が始まり、それを暗示させるために、阿波と紀伊半島の地名を同じとしたことからすれば、豊受大神祭祀の根源も阿波と言えるだろう。それを裏付けるかの如く、上一宮大粟神社の拝殿近くには「天の眞名井」がある。

梅雨も明け、35度を超える酷暑、皆さん元気にとろけてますか。

こんなときは祭りですな。ワッショォォーーーーイ!!
今年は、天皇が譲位(じょうい)されたので、数十年に一度しかない「大嘗祭」がある。

さてさて。
ところで「マツリ」ってなんなのさ?
神輿(みこし)、花火、綿あめ、おはやし、などは思い浮かぶが、
「ジャペンの「マツーリ」ってナンデースカ?」と外国人に聞かれたら、なんて答えるだろうか?
「ジャパニーズ、フェスティバル」←これでいいのか!

祭り。「神祭り」のこと。
祀り。神霊を慰める、安置する。
奉り。神(上位の人)に献上する。
政治も、「マツリゴト」という・・


これら、音はみな「マツリ」で、意味的にはどれも、庶民の日常生活とはちがう、どちらかと言えば上位にあたる敬意をもって扱ったほうがよさそうな次元における営み、といった響きに聞こえる点で共通している。

まず、いわゆる「祭り」からさぐってみよう。

祭りとは、そもそも「神祭り」が元となっている。
神社で神様をお祭りする神事(カミゴト、シンジ)のなので、神事のことは「お祭り」って言う。
本来神事は、神社の宮司さんや、その元締めである天皇陛下が、毎日のように執り行っている。
それがいつからか神社の重要な神事の日だけが「お祭りの日」となって、地域の人々が総出でするようになった。

まず、古来のシャーマン的ポジションの「宮司」さんが、その時期にあった祝詞(のりと)をあげ、五穀豊穣などをおごそかに祈念(きねん)する。つまり、お祈りだね。
かみさまー。起きてー。マツリおっぱじめるよー!のファンファーレのようなものか。
神社で柏手(かしわで)をうつのも、「神様、来たよ~!」のサインで、同じ意味がある。

そしていよいよ神輿が登場。
お神輿には神様に乗っていただく。これは結構世界で共通していて、何かしらの高座に神様がいるテイにして、それを担いで皆で歩いたりする。
※だからお神輿には、庶民がカッコつけたりして乗ってはいけない。
omikoshi_yokohama01.jpg
(出典:Webサイト「歴史の浪漫街道」)

神輿かついで町内を練り歩くのは、神様に対して「安心してください!ごらんのように、皆、神様(自然)に感謝して元気に仲良く楽しくやってますよ!」ということを見せるための、神様の視察行脚(あんぎゃ)だ。
神様はテンションアゲアゲなスパークピーポーが楽しんでるのを見るのが好き。

神様:みんなーっ!ノッてるかぁーいっ?!
皆の衆:乗ってるのはあんただろー!ウェーーーイッ!!

この神も民もみんな一緒にノリノリ状態がいわゆる「弥栄(いやさか)」状態。
だから祭りでヒートアップしてケンカしたりなんて絶対にダメ。神様はそういうの大嫌い。
(ケンカなんかしたら、天罰くだるかも!?)

この日ばかりは、日ごろ仲悪かろうが敵対していようが、今、この瞬間の祭りを全力で皆で楽しむ。過去のわだかまりも未来の不安も、今この瞬間を真剣に生きることにはなんの影響を及ぼすことはないのだ。
これがいわゆる「中今(なかいま)」の考え方だ。

そのあと、お神輿は神社に戻って、みんなで楽しく食べ、飲む。
これは、神様と一緒に飲んで食べて楽しむ直会(なおらい)と言う。
神社で御祈祷(ごきとう)してもらったあとに御神酒(おみき)やスルメを頂くのは、それを簡略化したもの。
そして、満足した神様に本殿にお戻りいただく。
これが「お祭り」の神髄。

もう少し詳しく言うと、
神社にはいろいろな神事があって、小祭(しょうさい)、中祭(ちゅうさい)、大祭(たいさい)と大きく分かれる。
最も重要なのが大祭で、その神社の例祭(れいさい)や遷座祭(せんざさい)などだ。
規模はそれぞれ違うけど、やっていることはほぼ同じ。
まず神様に食べ物を捧げるが、この食べ物を神饌(しんせん)と言う。そして、宮司さんが祝詞を奏上し、撤饌(てっせん=神饌を下げる)して終わり。大きなお祭りのときは、これにプラス、お神輿などが出る。

農耕文明になってからの田植えや収穫、あとは季節の節目に設定されていることが多いが、
それにしても神道は祭り好き!
大祭に向けたプレ祭り、プレプレ祭りみたいなものがたくさんある。
京都・祇園祭の前日夜の宵山(よいやま)、前々日夜の宵々山(よいよいやま)、なんてのがいい例。

これは(推測だが)「庶民の生活にリズム感をもたせる」機能として設定されたのではないかと思う。

リズム=「ケ」と「ハレ」のバランス。
「ケ」と「ハレ」について昨今あちこちで聞くようになってきた。
「ケ」は日常。「ハレ」は祭りの日。

単調な日常も、「目標」である「ハレの日」に向けて頑張って過ごし、「ハレ」の日にすべてのパワーを注ぎ込む。
民衆のうっぷんのガス抜き、といった見方もあるようだが、それだけとは思えない。
「ケ」が枯れることを「気枯れ(ケガレ)」という。ケガレないように、タイミングよく「ハレ」の日が置かれている。
音楽でも、AメロBメロが続き、サビが来てぐっと盛り上がる。サビだらけだったらダメなわけだ。
ずっとサビのごとき声量で熱唱する人のカラオケは、聞いてて疲れるわけで。
たまに来るハレの日のマツリにワクワクすることによって、日常も幾久しく輝くのだ。

大昔はそんなハレの日に、鹿の角や亀の甲羅の割れ方、相撲などをして「神様のお告げ」を受けて政治をしていたから、政治の「政」は「まつりごと」という。
さて。いまの政治はどうだろうか?森羅万象を口にする政治家は実はたくさんいる。大宇宙、大自然の声が聞こえているのだろうか?

ケガレの話をもっと深めてみよう。
お神輿は最近女性も担いでいるが、基本的にはダメだった。
男尊女卑といった概念が生まれるはるか昔から、いわゆる「血の穢れ(けがれ)」としてダメだった。
「穢れ」=気枯れ=ケガレ。汚い、ではない。
神道では「血の穢れ」と「死の穢れ」を最も嫌う。
死は最も気が枯れた状態で、出血すると元気が無くなるし、場合によっては死んでしまうから。

たとえば伊勢神宮では20年毎にお社を遷(うつ)す遷宮(せんぐう)があるが、これは「常若(とこわか)」と言って、神様が常に若々しくあることで、神様のパワーがあちこちに満ち溢れる、という意味がある。
いわゆる「パワースポット」であり続けるためにも、神様の気が枯れてはいけない。
神様の気が枯れることは、日本や、その土地の気が枯れることにも直結すると考えられていた。
神道では「穢れ」を避けるためにお祓(はら)いしたりする。白い紙や布みたいなもの(本来は麻)が付いた木(おおぬさ=大麻と言う)を神主さんが左右に振っている、あれがお祓い。

祓いたまひ、清めたまへ、守りたまひ、幸(さき)わえたまへ。祓って清めてハッピーハッピーが基本。

よって、「血の穢れ」ということで、毎月出血する女性は、お神輿を担いだり、その期間は神社の神事にも参加できない。
この期間、女性は肉体的にも精神的にも不安定になるので、それをいたわる意味もある。
子供が生まれてから最初のお宮参りでは、母親は子供を抱けず、代わりに父親の母親(子供の父方のお祖母さん)が抱くのも、出産の血の穢れが理由なわけだ。

修験道などで女性山伏がNGだったのも似ているのだが、
なるほどと思う話に、女性はそもそも自然の、月のサイクルとともにあり、自然(ジネン)を取り戻すことができる、
男性はそうではないから、山(参道=産道)に入りお宮(子宮)等で滝行などをして「生まれ変わって」、「自然(ジネン)」ないしは「野性(ヤセイ)」を取り戻す必要があったのではないか、などと解釈している現代の先達もいる。
これは目からうろこだ。

さて、ちょっと先にも触れたが、全国でコンビニの数よりも多い神社の宮司さんたちのトップは「天皇陛下」である。

ちなみに伊勢神宮の神宮祭主の黒田清子さんは、上皇陛下の長女である。そのまえは上皇陛下の姉の池田厚子さん。
朝起きてから寝るまでご神事だらけ、国民と世界のために常日頃から神様をお祭りして祈られている。
※天皇陛下のお務めは「皇室の祭祀と生きて」(河出文庫 元内掌典(ないしょうてん)、故高谷朝子著)がとても詳しい。お勧め。天皇制反対!リッチでズルい!なんて考えのひとびとにもお勧め。イノキにビンタをくらうほど目が覚めるだろう。

宮中でも全国の神社と同じようにたくさんの神事=お祭りがあって、その中でも重要な日を、昔は「祭日」と言って、日本全国お休みだった。
それが戦後、日本人を骨抜きにするためのGHQの策略で「ただの休日」とされ、日本人は本来の「祭日」の意味が分からなくなった。「祝祭日」なんていうが、みんなゴッチャで単なる「お休みの日」なのだ!


そのお祭りの中でも、掌典(しょうてん)や内掌典の人たちが代理でできない、天皇陛下しかできないお祭りがある。
元日の日の出前に行われる四方拝(しほうはい:四方の神々と伊勢の神宮に国家の平安を祈るお祭り)、
11月の新嘗祭(にいなめさい:その年の収穫に感謝するお祭り)などだ。
新たな天皇陛下が即位する「大嘗祭」は、新元号の最初の新嘗祭なのだ。
※ちなみに「新嘗祭」も天皇行事を切り離すGHQ占領政策により「勤労感謝の日」になってしまった。

女性天皇だと、これらのお祭りの日に前述の「血の穢れの日」が重なるとお祭りができないので、歴史上、女性天皇はできる限り避けられてきたわけだ。(いなかったわけではないが、どの時代の女性天皇を見ても、「つなぎ」的役目だったことがうかがえる。)

以上、まとめるとこうだ。
・お祭りとは神祭りのこと
・その大元は皇室にある
・神職のトップが天皇陛下で祈りの存在
・昔は神様のお告げを受けて政治をしていたから、政治の「政」は「まつりごと」

余談:
お神輿がユダヤ由来で、ユダヤの三種の神器の1つの「契約の箱」だという説や、「ワッショイ!」という言葉が「神が来られた!」というヘブライ語だという説もある。また、「血の穢れ」の考えがあるのは、日本とユダヤだけだとも。ユダヤの失われた支族は日本人かも??

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