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日本民族の旅路

戦後の経済活動一辺倒の時代を経て、人々の精神が病み、将来に希望が持てなくなりつつあった2011年、そんな日本人をあざ笑うがの如く、日本列島に未曾有の大震災が襲い掛かった。
しかし、奇しくもその大災害をきっかけとして、日本人自身が日本人とは何なのか、日本人はどこから来てどこへ行くのか、ということについて多くの国民が、目覚め始めた。
このblogが、そのような方々のこれからの行動の追い風として役立てば幸いである。

★転載・コピー・配布等は自由ですが、必ず引用元として当ブログリンク付けをお願いします。
 詳細は≪こちら≫をご確認ください。

令和3年11月にこの本編を公開したが、その後の資料検討により、藤原鎌足と中大兄皇子(天智天皇)の関係が明らかとなった。

 文言修正や少々の追記・削除ならば以前のものと差し替えるだけで、特に改訂したことまではお知らせしないのだが、今回については内容的にかなり重要である。そこで、この改訂版に於いて、改めてその内容をお知らせすることとした。

★藤原鎌足は百済を建国した扶余族(原始キリスト教徒)の皇子・扶余豊璋(フヨホウショウ)であり、中大兄皇子はその実弟・扶余勇である。

 なお、主な追記・改訂箇所は以下となる。

・6ページ
 出雲族に於ける兄弟間の殺人事件について、カ・イン(カイン)とアバエル(アベル)の兄弟殺人の再現となり、カルマの再現となってしまったこと。

・11ページ
 「7:乙巳の変」に項目番号追記。

・13ページ
 「妹の力」の注記追記。

・17ページ
 『旧唐書』の記述追記。

・18ページ
 中大兄皇子こと天智天皇が鎌足の実弟であることを追記。次の行の『新羅史』の記述追記。

・21ページ
「⑤泉涌寺で祀られる歴代天皇の意味」追記。

本編PDF↓
聖徳太子改訂版


---- 管理人コメント ----
聖徳太子、海部氏に関心ある人にしか本編が読まれないのは非常にもったいないため、
ここだけでも本編PDFから抜粋したい。
文字検索で、より多くの人の目に触れますように。


--以下本編PDFより抜粋--

十七条憲法 簡易訳

①和を尊重し、争わないようにしなさい。
②篤く三宝(仏法僧)を敬いなさい。三宝は生命ある者の最後の拠り所であり、すべての国の究極の規範である。
③君主(天皇)の命に、謹んで従いなさい。謹んで従わなければ、国家社会の和は自滅してゆくことだろう。
④政治家、官僚は礼の精神を基本としなさい。民に礼があれば、国は自然と治まる。
⑤政治家や官僚、裁判に関わる者達は、饗応を絶ち、私欲を捨てて、訴訟を厳正に審査しなさい。
⑥悪を懲らしめ、善を率先しなさい。(勧善懲悪。)こびへつらったりおもねり媚びる者は、忠義心や徳が無く、国家を乱す原因となる。
⑦それぞれの任務を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。官職に適した人はいるが、人のために官職は無い。
⑧政治家や官僚は、朝早くから出仕し、夜遅くなってから帰りなさい。⑨誠実と信頼は義の基本である。
⑩怒りの心を無くし、怒りの表情を出さないように。人には皆心があり、各々のこだわり(執着)があるのだから。
⑪功績・過失に見合う賞罰を適正に行いなさい。
⑫国司や国造(現在の自治体)は、勝手に税金を徴収してはならない。国の全ての民は天皇を主とするからである。
⑬公人は職掌を熟知し、公務を停滞させてはならない。
⑭公人は、嫉妬心を持ってはならない。
⑮公務に対しては、私心を捨てなさい。
⑯人を使役する場合は、適切な時期を考えなさい。
⑰物事は一人で判断せず、皆で議論しなさい。

このようなことをわざわざ書き記さなければならなかったのは、当時でも、こういったことが蔓延っていたからに他ならない。そして、現代では公務に限らず、企業活動に於いても言えることだろう。パワハラなどというのは、もってのほかである。

“実るほど こうべを垂れる 稲穂かな”

十七条憲法で述べられていることの中では、以下のことが特に重要である。
・和を以って貴しと成す。
・政治家、官僚は礼の精神を基本とし、私欲を捨てること。
・権限を乱用してはならない。
・誠実と信頼は義の基本である。
・怒りの心を無くすこと。
・嫉妬心を持ってはならず、私心を捨てること。


一言で言えばエゴを捨てること。これはすなわち、眞名井の真理である。

名に付いたエゴを捨て去り、本来あるべき眞の心に戻ることが最重要である。

そして、多くの和が志す「和多志」の神の真理。





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<北条政子は夫婦別姓?>

 巷では「鎌倉殿」がブームらしい。(2022年8月時点。)
鎌倉殿とは、鎌倉幕府の将軍で国史上初の征夷大将軍・源頼朝であることは、皆さんも重々承知のことだろう。

*頼朝の母は、熱田神宮大宮司・藤原季範(スエノリ)の三女、由良(ユラ)御前である。(当時、大宮司家は尾張氏から藤原南家に代わっていた。)つまり、頼朝は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に先駆ける愛知県出身の天下人と言えるのだが、なかなかこれが話題になることは少ない。

 源氏の鎌倉幕府はたったの三代(頼朝、頼家、実朝)で終わってしまい、その後は執権だった北条氏が実権を握った。しかし、頼朝、頼家、実朝が亡くなった後、京から招いた幼い藤原頼経(ヨリツネ)の後見となって実際の幕府の実権を最初に握ったのは、尼将軍と称された頼朝の正妻、北条政子である。ならば、実質的に頼朝の時代から政子がかなりの権力を振るっていたと考えることもできる。
 その北条政子だが、「源政子」とは学校で習っていない。何故、正妻なのに「源政子」にはならずに「北条政子」のままなのか?生徒は誰もそんな質問はしなかったし、先生も何の疑問も無く当たり前のようにそう教えてきた。(今でも、そうだろう。)

 実は、このことは家制度や氏族、氏姓制度の問題で、日本の家族制度のルーツに関わることであり、天皇家にも大いに関わることである。そして、夫婦別姓という問題は、現代に於いても実は大変大きな問題をはらんでいるのである。
 それでは、北条政子を通じてこれらについて考察しよう。

本編pdfはこちら↓
北条政子は夫婦別姓?

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管理人コメント

「生まれた時からそうだから、当たり前すぎて、なぜそうなのか、は知らない」もののひとつ、名前。

管理人も、ぼんやりとしか知らないことだらけだった・・・
これは名前をもっているすべての日本人は?知っておいた方が良い話だ。

北条政子はなぜ「源」ではないのか、という”現代的な常識からの疑問”を入り口とし、
大抵の日本人が ぼんやり/なんとなく しか知らなかったことが紐解かれている。

日本の氏姓制度は何がルーツ?
天皇にはなぜ氏姓がない?
平氏と平家の違いは?

そして、そこを紐解いていった先に、
昨今国会で議論されている夫婦別姓問題の本質と、その未来に炙り出されてくる「国際共産主義化」。

夫婦別姓にするかどうかの選択は個々人の自由であってよいと管理人は思う。
というより、極論、名前など好きなように変えればよいと思う。
ミドルネームがいくつも並ぶ国もあれば、
「おまえは今日からさまようオオカミだ」と言われるような先住民族もいるわけで。

しかし、このレポートにあるように、それによって便利になること、薄らいでしまうこと、気づかぬうちに消え去ってしまう「繋がり」、などをしっかりと理解したうえで、選択すべきだと思う。



2021.11.22

聖徳太子

 聖徳太子-これほど国史上有名だが、謎に包まれた人物はいないのではないか?かつてはお札の肖像画になるほどポピュラーで、お札と言えば聖徳太子、と言っても過言ではなかった。
 一度に10人もの言葉を同時に理解したなどの超人的な逸話や厩(うまや)の前で生まれた逸話はイエス・キリストを思わせ、大工の祖ということからはフリーメイソンのにおいもする。(イエスの養父ヨセフも大工だったとされる。)
 現実的には、冠位十二階や十七条憲法を定め、仏教を取り入れると共に神道も厚く信仰した。大陸には遣隋使を派遣して「日出処天子至書日没処天子~」と述べて隋の煬帝を怒らせたが、これにより、大陸から真の独立を果たした。

 このように、現実的にも逸話としても人間離れしていることから、存在自体が怪しまれ、昨今では歴史教科書に於いても「聖徳太子」という名が「厩戸皇子(ウマヤドノミコ)」に書き換えられようとして問題となった。

 こんな謎多き聖徳太子だが、実は縄文、弥生、そしてその後の秦氏の渡来の歴史までを背景とし、何と、宇宙の真理まで暗示されていたのである!では、その謎深き森に踏み込んでいくこととしよう。

*聖徳太子については、元伊勢籠神社・第82代宮司・海部光彦氏から多大なるご示唆を受けました。しかしながら、令和3年11月8日未明、享年91歳にてご帰幽されました。(帰幽:きゆう。人が亡くなったことを意味する神道用語。)
 この聖徳太子に限らず、人類史や宇宙真理の根源に関わることに至るまで、大変貴重なお話を伺えたことは感謝の念に堪えません。この場をお借りして謹んで御霊の平安をお祈り申し上げ、この記事を故・海部光彦籠神社名誉宮司に捧げます。
 この記事の公開日は、ご葬儀の令和3年11月11日から11日後の11月22日ですが、奇しくも聖徳太子のご命日で、しかも1400年御遠忌に当たるのは天命とも言えましょう。(遠忌:おんき、おんぎ。五十年忌、百年忌など、没後長い期間を経て行われる仏事のこと。)


↓本編pdfはこちらをクリック
聖徳太子

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★管理人より★
「聖徳太子」については2023.5月に「改訂版」が出ていますので、最新版をお読みください。
初版から1年半の調査・研究で改定された過程もお楽しみいただけるようなルーツ愛好家な方々は、ぜひこちらの初版も楽しんでいただければと思います。
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syotoku

<皇位継承問題-男系、女性・女系天皇->

 天皇は日本国の象徴であり、国家元首でもある。
そして、日本は天皇が“しらす”国である。“しらす”とは、国のトップが国の事情を広く知ることにより、自然と国民が統合され、国が統合されていくという、神話に於ける神々の住まう高天原(たかまのはら、たかまがはら)の統治機構そのものである。これに対して“うしはく”という統治機構があるが、これは豪族や首長が政治的権力をもって治めることである。
 現代に置き換えるならば、天皇が国の状態と国民を知り、国の象徴として国を治める形態が“しらす”状態であり、議員が政治によって治める形態が“うしはく”状態であって、議会や国会が政治権力であり、天皇が国としての権威ということである。“しらす”ことの最も良い例が第16代・仁徳天皇である。

・即位後、宮殿から国を見渡した天皇は、民家のかまどから煙が立っていないのを見て、民が貧しいことを知った。そのため、3年間徴税と労役(ろうえき)を禁じ、自らも衣服や履物は破れるまで使用し、屋根が傷んでも直さず、宮殿は雨漏りしていた。3年後、再び宮殿から国を見渡すと、民家のかまどから煙は盛んに立っていた。民に生活力が戻ったことを確認した天皇は徴税と労役を命じたが、民は大挙して都に集まり、自主的に宮殿の造営や納税に励んだ。

 このように、天皇は民を想い、民は天皇を想うという、親と子のような関係であり、天下は一つの家のような状態である。これを八紘一宇(はっこういちう)と言うが、「八紘(あめのした:天下)を掩(おお)ひて宇(いえ=家)にせむ」という日本書紀に於ける初代天皇・神武天皇の詔勅(しょうちょく:天皇が公に意思を表示する文書)に由来する言葉である。これは天皇を神格化するものではなく、国は一つの大きな家族のようなものということで、普段は意識しなくとも、いざという時には大きな効力を発揮する天皇並びに皇室と国民の関係を言い得ている。現代に於いてすら、普段は天皇や皇室のことを意識しなくとも、阪神淡路大震災や東日本大震災の時の両陛下のお姿に国民はどれだけ励まされたことか、記憶に新しいことだろう。

 しかし、二千年近く続いてきたこの天皇の皇位継承システムが今、皇族が減少し続けてきたことにより、断絶の危機に直面している。今上(きんじょう)陛下が御即位されて元号も「令和」に改められ、立皇嗣の礼も含めた御即位関連の一連の儀式も無事、斎行された。そのため、悠仁親王殿下御誕生以降、下火となっていた女性天皇・女系天皇論や歴史上存在しなかった女性宮家まで含めた議論が再び開始された。だが多くの国民は、女性天皇と女系天皇の違いすらしっかり認識しておらず、雰囲気や男女平等論等に基づいて何となく、という感覚論で判断しているように見受けられる。
 これは、先人たちが知恵を振り絞って維持してきた男系男子による皇位継承システムが即座に断絶する可能性を意味し、

皇位継承システムの断絶とは、これまで続いてきた天皇・皇室制度の終焉を意味する。

すなわち、日本という国のあり方=國體(こくたい)が根本的に変わってしまう事態を意味する。

言い換えれば、二千年以上の長きにわたって続いてきた日本という国がリセットされることを意味する。

 そこで、本記事に於いては、現在の男系継承をはじめ、女性天皇・女系天皇、宮家・皇族とは何なのか、また、皇室の祖とされる天照大神が女神なのに何故、天皇は男系継承してきたのか、ということを明らかにするために、天皇の存在意義や神話、古代からの日本に於ける女性の地位・立場、祭祀(さいし)のあり方など、多方面から考察しよう。
 なお、内容的には極めて重要な事であるため、多くの方にご覧頂きたく思い、記事としては二編用意しているので、適宜、ご覧頂きたい。

皇位継承問題 ←ここをクリック
 初めて当ブログを訪れて頂いた方や、概要を理解したい方向け。

皇位継承問題-詳細 ←ここをクリック
 当ブログの記事を以前からご覧頂いている方向け。上記記事『皇位継承問題』に、第26代・継体天皇から第38代・天智天皇、第40代・天武天皇を経て、第50代・桓武天皇に至る詳細を追記考察している。

 この機会に、これまで何となく感覚的にしか捉えていなかった皇位継承や皇室について考えてみては如何だろうか?本記事が、少しでもお役に立てれば幸いである。


--管理人コメント--

何のために知らなければならないのか?それはまさにこの部分。

皇位継承システムの断絶とは、これまで続いてきた天皇・皇室制度の終焉を意味する。
★すなわち、日本という国のあり方=國體(こくたい)が根本的に変わってしまう事態を意味する。
★言い換えれば、二千年以上の長きにわたって続いてきた日本という国がリセットされることを意味する。

「だから男系でなければダメである」 と頭ごなしに言いたいのではない。
新時代にあった在り方があっても良いとは思う。

しかし、数千年の歴史のなかで築き上げできたものをしっかりと理解して議論すべきだし、
そもそも政治家やにわか評論家が口を挟む問題でもないのだ。

ただし、天皇陛下はその決断のとき、国民の想いや願いに身を寄せるだろう。

だからこそ我々は、「なんとなく」や「雰囲気」、「他人事」ではなく、すべての日本国民が”しっかりと理解”したうえで考え、自分自身の(自分がこの国の代表だったとしたら、くらいの視座で)考えを導き出す必要があるとおもう。

判断を誤れば”取り返しがつかない”こととなる。
そうなれば、われわれ世代は日本の子孫たちから”雰囲気で取り返しがつかないことをしでかしてくれた世代”として恨まれることになるかもしれない。

「天皇」 「八紘一宇(はっこういちう)」 「国體(こくたい)」
これらの言葉を聞いた瞬間にアレルギー反応を起こしたり、
右寄り思想な人々の好きなコトバだ!とか、
男尊女卑だからそもそもアウトだ、とか、
天皇すり替え説=だから今の天皇は偽物=だから要らない、とか、
天皇だけ豪華な皇居で生活しているのが不公平だ、不平等だ、
などという思いが頭をよぎるひとびとにこそ、このレポートを参考にしてほしい。

そんな、スケールの小さい話ではないので。

よくある「男系を継続しないとY染色体が継げないから」という話もあるが、もしそうだとしたら、
科学も医学も今とは違う何千年も前にそれを重要視した「理由」に目を向けずして、安易な判断をして良いのだろうか?

こんな話がある。
ある田舎の神社の真ん中に、ご神木のごとき柿の木があった。
敷地から離れたところに墓があり、そのとなりに小さな湧き水と小川があり、「この小川は決して穢してはならない」と言い伝えられてきた。
しかし区画整備等でその世代の宮司(土地の所有者)が禁を破ってしまう。
言い伝えに対してはかろうじて、小川を潰すのではなく、流れるコースを変えたのだった。
すると・・・じわじわとゆっくりと時間をかけ、柿の木が枯れていった。
氏子たちに柿をふるまう柿祭りもできなくなり、氏子が集まる機会も減った。
柿を食べに来ていた鳥も来なくなった。
天敵の鳥が減ったおかげで、境内の木々には虫がわき、荒れ果てていった。
柿の大木の根に住んでいたその土地独自の菌類が死滅し、その神社のまわりの田畑の作物も実らなくなった。

大自然と同じく歴史あるものは、「そうなるとは知らなかった」では、取り返しがつかない。


「日本のルーツ研究と弥栄」ブログにアニメ?
しかも、何かと話題になり、問題となったエヴァンゲリオン・シリーズの最終作。
今回で本当に終わり、ということで、庵野監督のドキュメンタリーがNHKで放映されたことも話題の一つだ。

 筆者は特にエヴァに思い入れがあるわけではなく、アニメ本は読んでいないし、テレビで放映されていたアニメも観てはいない。観たのは、テレビで放映された劇場版だけだ。それもつい最近のこと。社会現象化するには、何か理由があるのだろう、と。
 確かに、日本人が詳しくない聖書系の言葉がふんだんに登場し、いわゆる「謎解き」の様相を呈しているし、日ユ同祖論なども影響しているのかもしれない。

 核となるのは“人類補完計画”。一言で言えば、不完全な存在である人類を補完して完全生命体にする、というものだが、実はそこに本ブログが関与すべき極めて重要な問題が存在していたのである。しかも、最終作に於いて、それは明確なものとなったのだ。
 従って、本ブログに於いては異色であるものの、今回はアニメを主題とした。
更に、時を同じくして空前の大ヒットとなっているアニメ『鬼滅の刃』にもまた、共時性とでも言うべきか、“人類補完計画”との共通性があった!それは、鬼と鬼祓いについてである。

 なお、両作品とも現時点(2021年4月下旬)に於いて劇場上映中ということもあり、作品からの引用図は1点のみに止めた。

↓↓右クリックでダウンロード可能
『シン・エヴァンゲリオン』

※本記事はこれらアニメの解説と謎解きではないため、ストーリーについては割愛させて頂いた。興味のある方は、以下などをご覧頂きたい。ただし、ネタバレとなるので、ご注意を。

・シン・エヴァンゲリオン
①従来作の解説
https://animeanime.jp/article/2020/05/06/53462.html
https://ciatr.jp/topics/57683
https://animemiru.jp/articles/48044/
https://ciatr.jp/topics/316250
https://animemiru.jp/articles/48048/
https://animemiru.jp/articles/48049/
https://animemiru.jp/articles/48041/

②シン・エヴァンゲリオン解説
https://article.yahoo.co.jp/detail/37441362796df51fa174db234063de3d01589f1d
https://cinemarche.net/column/evangelion-sin-netabarenobi/

・鬼滅の刃
https://eiga-watch.com/kimetsu-kizuna/
https://eiga-watch.com/kimetsu-natagumoyama/
https://eiga-watch.com/kimetsu-chugokaigi-choyashiki/
https://eiga-watch.com/kimetsu-2020/



---管理人コメント---

なるほど、、そうきたか・・ (←管理人も感嘆)

シン・エヴァンゲリオン及び鬼滅の刃というコロナ禍における大ヒットアニメについて、
「和多志」の精神と「眞名井」の真理にしっかりと着地されたことで、清々しさを感じた方も多いのではないか。

映画そのものも、(管理人にとっては)とても満足な、良い終わり方だった。
エヴァが始まったのは、
ちょうど管理人が、バブル崩壊後の就職氷河期に大学を卒業し、なんとか就職した年。
阪神淡路大震災がおき、地下鉄サリン事件が起きた年である。

当時ガンダム世代の管理人にとってエヴァンゲリオンは、見た目もグロテスクで好きになれず、それほどハマらなかった。
しかし詳しい友人がいたり、カバラやセフィロト(生命の樹)が出てきたあたりから、おや?このアニメは・・・と、興味を持つように。

一作一作公開が制作側のゴタゴタもあり間延びした劇場版。
アニメにしてはあまりにも難しすぎるテーマについて、
「終わらせ方」がわからず迷走したかに見えた庵野監督の葛藤がこちら側まで伝わってくるかのようだった。

前作「Q」後は・・・庵野監督よ、背負ったものは大きいが、どうか苦しまないでほしい、もう中途半端な終わらせ方でも良いのではないか?、とすら思ったのもだ。

前作「Q」でまたもやシンジは自己中心的な考えで「やらかして」しまう。
こうして、自分とは何なのかを追い求めるために"誰かのために"行動してみせたり、自分自身で自分と向き合わずに”他人に答えを求めるふりをして責任を押し付けたり”、ありとあらゆるものに精神依存、存在承認を求める怪物、それこそが人間だ、あとは自分自身で考えてくれ!という終わらせ方でも良いのではないか?と。

しかし・・・
シン・ゴジラに寄り道したり、ご自身の結婚、そしてコロナ禍などを経た、庵野監督自身の精神的成長の境地に、やっと絞り出されたすばらしい「終わらせ方」に立ち会うことができた。

庵野監督がはじめてしまい、25年ものあいだ、多くの人々を巻き込み、付き合わせてしまった世界観を、自分自身とそして自分のアウトプットに寄り添わせてしまったファンたちのために、オトシマエをつけたかのよう。

もう、さまざまな謎解きや、キーワードの暗示、意味付け、考察する必要なはい。

youtubeやコアなファンによるさらなる解説や、次の予測、などは、「野暮」なのだ。
そんなことをしても、庵野監督は、続きのファンタジーを与えてはくれない。

「終わった」のだ。

エヴァ好きで、陰謀論やスピリチュアル方面を仕事にしている人は、バチーンと頬を殴られたように目が覚め、ショックを受けたかもしれない「救いの」作品に仕上がった。
良かれと思って情報発信や精神世界関係で他人からお金というエネルギーをとっている人には、まさに、残酷だが天使のテーゼ。
もう、そんなことは終わらせないといけない。自らの手で。
時代はそれを要求しない。むしろ、排除しようとしている。

いずれは誰もが、ここに到達しなければならない、向き合わなければならない現実に、強制的にひき戻される。

エゴでなくエヴァ。
自分の人生は、自分で切り拓くもの。
大切な友を見守るだとか、寄り添う温かさはあってよいが、
支援、サポートしてはいけない時代にはいったようだ。

多くの人が気づいているように・・他人が“気付きを与える”とか・・できないのだ。
外から与えられる気づきなるもので、自身が納得ができる幸せな生き方に変えられた人がどれほどいるだろうか。
自分自身が触れたくなかった部分を、勇気をもってわしづかみにし、それと向き合って、行動を変えていくなかで、深い意識変容が起き、過去の自分に別れを告げ、達観したステージへと自分の足で歩む。
それしか道はないのではないだろうか?

それを、自分自身で得るべき気づきを、ひとはたやすく邪魔をしてしまう。
時にはカウンセラーやコンサル、プロデュースなどでお金をとってまで遠回りさせてしまう。
そんな人々もまた、自分探しの旅から抜ける勇気がないために他人に目を向けすぎてしまうわけで、
その罪は放たれた矢のように正確に飛んできて、なんらかのかたちで対価を支払うことになる。

シンジの両親がそうであったのように。

ひとは、善悪2チームに別れていまを生きているのではなく、
それぞれの中で、二面性をもって成長し、
テーゼとアンチテーゼがからまりあって融合し、ジンテーゼ(次の次元)へと昇華する。
まさにそのようなメッセージをのこして、庵野監督は”終わらせた”。

25年続いた物語は、なんのへんてつもない駅のシーンで終わる。
向こうのホームは非現実世界。
あの頃の仲間は、列車に乗って去っていく。
こちらのホームは、現実世界。
シンジは、駅のホームで座っているのにも関わらず、「行こう!」と手を繋いで駅から飛び出していく。

それはまるで、
「もう、敷かれたレールの上を走る電車には乗らない」といわんばかりである。
現実を受け止め、現実に生きること、自由を生きる覚悟を楽しむかのように。

自分とは何者で、何のためにここに来たのか。
その謎に自分自身でケリをつけ、社会のため、地球、宇宙を存在させ続けるための意志の集合こそが『和多志』なのだ。
すべてはそこへ、辿り着くということを、日本のアニメで改めて確認できた。

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